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The Blues Road-3-


悪魔に魂を売った伝説のブルースマン、
ロバート・ジョンソンを追って。-3-

【前回までのあらすじ】

27歳で非業の死を遂げた天才ブルースマン、ロバート・ジョンソン。彼の音楽の魔力に取り憑かれた「僕」は、その謎と神秘に満ちた足跡をたどるべく、アメリカ南部、ミシシッピ・デルタへと向かった。ニューオーリンズからミシシッピ州へ、炎天下の旅は続く‥‥。

ハイウェイの傍の教会、グラスホッパーの墓守

シオン教会は州道に交わる未舗装の道の路傍に、あまりにもひっそりと立っていた。
つい数分前、燃料運搬トラックの運転者が「ロバート・ジョンソンの墓を探しているのかい?」と僕に話しかけ、道案内をしてくれたのだったが、彼がいなかったら、永遠に教会を見つけることができなかったかもしれない。
お目当ての墓はすぐに見つかった。オベリスクを模した立派な墓碑はレコード会社が寄贈したものだ。南東に向けられた正面に〈キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース〉の文字。その上の方に貼り付けてあったはずの顔写真のエンブレムは、心ないファンに持ち去られたのか、虚ろなねじ穴を残して消失していた。墓碑の側面には『俺と悪魔のブルース』の歌詞とロバートの略歴、背面には彼が残した全29曲の曲名がそれぞれ刻まれている。グラスホッパーが一匹、墓の主の素性を知ってか知らずか、墓石の上をゆっくりと歩いていた。僕は畑で摘んでおいた綿の花を一輪手向けて手を合わせた。彼が歌の中で望んだ通りの場所だ、と思った。
〈俺の亡骸はハイウェイの傍に埋めてくれ/(どこに葬られようと俺は一向にかまわねえんだがな)/俺の亡骸はハイウェイの傍に埋めてくれ/俺の忌まわしい霊魂が
/グレイハウンドに乗っていけるように〉(『俺と悪魔のブルース』より)

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シオン教会からグリーンウッドに向かう途上にロバートが毒を盛られた現場だと言われている場所がある。その土地の名はスリーフォークス(三叉路)。四つ辻で悪魔に魂を売り渡した男が三叉路で毒殺されたというわけか。
スリーフォークスには本当に三叉路があった。三叉路の周囲はほとんど野原だが、土埃にまみれた粗末な家が一軒だけ建っていた。6人の同じ顔をした子供たちがポーチで遊んでいる。
家の中からはテレビの音が聞こえる。「ばあちゃんがテレビを観ているんだ」と、6兄弟のひとりが教えてくれた。彼らの住まいになる前、この建物は雑貨屋だった。かつてミシシッピ・デルタの雑貨屋といえば、週末にはブルースマンが呼ばれて安酒場に変身するのが習いだった。1938年8月13日土曜日の夜、店は大いに賑わっていたに違いない。すでにレコードも出してファンを得ていたロバート・ジョンソンと、やはり人気のハーモニカ・プレーヤー、サニーボーイ・ウィリアムスンが揃い踏みしていたのだ。さらに遅い時間からはロバートの弟分、ハニーボーイ・エドワーズの出演が控えていた。
サニーボーイは証言している。その晩、何者かが栓の開いた半パイント(約240ml)の酒瓶をロバートに手渡したのを見た、と。
「やつは酒飲みというよりもウィスキーそのものだった」と盟友のジョニー・シャインズが語る通り、ロバートの酒好きと酒癖の悪さは抜きん出ていたらしい。もし誰かが彼に毒を盛ろうと企(たくら)むのであれば、ターゲットとなるのは酒瓶でしかありえない。サニーボーイは、「口の開いたボトルに手を出しちゃいけない」と諌(いさ)め、一度はロバートの手からボトルを払い落としたという。酒を台無しにされたロバートは激昂した。
2本目のボトルを彼が手にした時、もはやサニーボーイには忠告の余地は残されていなかった。
その直後の演奏で誰もがロバートの異変に気づいた。ハニーボーイ・エドワーズが店に入った午後11時頃にはロバートはもう二度とブルースをプレイすることが出来なくなっていた。息を引き取ったのは3日後の火曜日のことだ。


メンフィス。ブルースはいったい何処へ行ってしまったのか

丸5日間、ミシシッピ・デルタの眠ったような寒村ばかりを巡った者にとって、メンフィスは目を見張る大都会である。グレイスランド(エルヴィス・プレスリーの邸宅)にサン・スタジオ(プレスリー、ジョニー・キャッシュらのレコーディングが行われた“聖地”的なスタジオ)、この街は言わずと知れたエルヴィス・プレスリーのホームタウンだ。
しかし、街一番の歓楽街、ビール・ストリートを歩けば、この街のもうひとつの大切な顔が見えてくる。軒を並べるライブハウス、“ブルースの父”W・C・ハンディの銅像、公園のパフォーマー‥‥、メンフィスはあらゆるスタイルのブルースと出合えるキャピタル・オブ・ブルースなのだ。

ロバートはこの街で5歳からの2年間を過ごした。母親と離され、義父には疎(うと)んじられて過ごした時期で、決して楽しい思い出の地とは呼べるまいが。
ひとりの伝説的なブルースマンの足跡をそれなりの密度で辿りながらも、僕にはどうしても満足のいかないことがあった。肝心の生のブルースに出合えていなかったのだ。旅をする前には、南部に行きさえすれば、辻ごとにブルースマンが立ち、街や村のあちこちからチョーキングの音が流れてくるものだと、当然のように期待していたのだ。ところがこの時点まで、街頭の弾き語りはおろか、ジューク・ジョイント(ブルースのライブに合わせて踊ることができる安酒場)のひとつさえ僕は拝めていなかった──。

手長女のダンスと「魂」の問題について

午後11時40分、ビール・ストリートの『ブルース・シティ・カフェ』は酔眼の客で賑わっている。
ステージには4人組のバンド。テネシー・ウィスキーを飲みながら曲に合わせてステップを踏んでいると、フロアの黒人女が手招きをする。僕はグラスを手に持ったまま、だらりと長い腕を持つ女のもとに歩み出て踊る。しなやかに動く女の肢体から分解半ばのアルコールがすえた臭いとなって立ち上る。誘惑の腰つき挑発する眼差し。踊りながら女は囁く、「ねえ、あたしに一杯、おごってくれない?」
僕の頭の中で一杯の効用をめぐって胸算用が始まる。
用心しろよ、と片方の自分が言う。勝負に出るんだ、ともう一方の自分が急(せ)き立てる‥‥。
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その夜、僕はビール・ストリートのライブを片っ端からハシゴした。プレイヤーの腕もハコの雰囲気も、いずれも悪くない。わずか3ドルのチャージで楽しむエンターテインメントとしては、充分にお値打ちである。が、それは僕が求めているものと少しだけ、けれど決定的に、違っていた。うまく説明できないが、要は「切実感」とか「魂」の問題であるように思われた。

翌朝、ホテルの近くのギター・ショップを訪ねた。〈ロッド&ハンク ヴィンテージ・ギター〉はメンフィスとナッシュビルのコレクターがタッグを組んで開業したマニア垂涎の店。美しいギターのディスプレーを一通り鑑賞した後で、僕は経営者のひとり、ロッド・ノーウッドに話しかけ、旅の次第と例の疑問──「魂」の問題について──をぶつけた。

「そいつは無理もないね」とロッドは同情を込めて説明してくれるのだった。ロバート・ジョンソンの時代から60年、世界中の他の場所と同じようにミシシッピ・デルタの町々も大きく変貌したのだ。飯場は消えて過疎が残り、ジューク・ジョイントなどは絶滅の危機に瀕している。生のブルースはもはや都市のライブハウスのみで聴くことのできるものになってしまったのだ、と。
「でも、チャンスが皆無というわけでないんだよ」と、タトゥーだらけのいかつい体つきとは裏腹な、純朴そうな目が微笑む。「ホーリー・スプリングスの近くには週末だけやっている昔ながらのジューク・ジョイントがある。クラークスデールでも運が良ければ本物に出合うことができるだろう」
ロッドの話に出てきた地名はいずれもメンフィスの南方100マイル圏内にある。北上の旅が逆行することになるが、仕方あるまい。これから数日はメンフィスをベースに亡霊の行方を追うとしよう。blues road-084

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いくつかの“聖地”を巡礼する、スピリットは継承される

メンフィスの南約50マイルのロビンソンヴィルはロバートが少年時代から成人するまでの最も多感な時期を過ごした場所である。ロバートはここで幼なじみと釣りに出かけ、ハーモニカを覚え、壁板に針金を張ってギターの練習に明け暮れた。17歳で最初の結婚をし、お産で妻と赤ん坊の両方を失ったのもこの場所での出来事だった。
特産のコーン・ウィスキーをお目当てに、町には錚々たるミュージシャンが集まった。ウィリー・ブラウン、サン・ハウスといった先達からロバートは直に影響を受けたのだ。かつては綿花とウィスキーで栄えた町も今は10数軒のみすぼらしい民家と白人が経営するカフェが一軒あるのみ。最近、すぐ近くにできたカジノの賑わいを尻目に、町は時の流れの中に埋もれたように見える。僕が探していたものはここでも見つかりそうにはなかった‥‥。
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クラークスデールという地名は、わが国で刊行されているガイドブックなどでは見いだしようもないが、ブルース・フリークスにとっては甘美な響きを持った、外せない地名ということになる。「ブルースはデルタで生まれ、クラークスデールで育った」という言葉が示すごとく、ジューク・ジョイントの面影を残すライブ・スポットがいくつかあり、主だったブルースマンたちのプロファイルと相関を展示した〈デルタ・ブルース・ミュージアム〉がある。
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僕が町を訪ねたのはあいにくウィークデイの昼間で、生の演奏を聴くことなど叶うべくもない。やむなくミュージアムでお勉強でも、とドアを開いた。館内は高校の学園祭のようなカジュアルな展示だったが、ブルース発祥の歴史などコンパクトにまとめられていて、ためになる。
ロバート・ジョンソンのコーナーで紹介されていたのは、他でもない「クロスロード(四つ辻)の伝説」であった。
突然、部屋の奥からドラムスの音が聞こえてきた。行ってみると、スーツを着込んだ少年が真剣な表情でリズムを刻んでいる。この日は、地元の子供たちがブルースを教わるレッスンの日だという。一心不乱にスティックを動かす少年の姿には、僕が探し求めていたものへと通じる何かが宿っているようだった。
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クラークスデールの北、49号線でミシシッピ河を渡ると、アーカンソー州ヘレナ(現在はウェストヘレナと合併し、ヘレナ=ウェストヘレナになっている)。
州は違えども、この町もブルースを信奉する者にとってはミシシッピ・デルタの聖都のひとつであることに違いはない。往時にはあらゆる優れた演奏家がこの町を経由したと言われる。
ロバートはヘレナをその短い生涯の最後の拠点とした。この町で彼はロバート・ロックウッドJr.とその母エステラと暮らし、同じファーストネームを持つジュニアを可愛がって、彼のスタイルを伝授した。シカゴ・スタイルのブルースで名を馳せたジョニー・シャインズ(1915-1992)は1935年、名手ロバート・ジョンソンの噂を聞き、勝負を挑もうとヘレナにやってきた。“カッティング・ヘッド”と呼ばれる路上での弾き合いでジョニーはロバートに完敗。この時の勝負が縁でふたりは友だちになり、連れ立って、ミズーリやテネシーまで演奏旅行に出たという。

今日のヘレナは、毎年10月に開かれるブルース・フェスティバルのスポンサーである〈キング・ビスケット〉の工場だけが生き生きとして見える、もうひとつの寂れた町である。
哀しいくらいに人通りのない商店街──たいていの店はクローズになっている──にバーバ・サリバンの営むレコード・ショップがあった。アナログ盤の『キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース』をかけてもらって話を聞いた。
バーバは1940年にこの町で生まれた。彼が12歳で食料雑貨店に雇われて仕事に就いた時分には、まだ週末だけのライブ・スポットがあり、ドラッグストアを回って演奏し、小銭を稼ぐミュージシャンが大勢いた。60年代になると人々は都会に移り、彼らの往来もいつしか途絶えてしまったということだ。14回目を迎えるブルース・フェスティバルの発起人でもある彼は、黄金期の聖都のありさまを語る生き証人を自認しているようだった。

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この日の夜、たまたま町のホールでブルース・コンテストが開かれることになっていた。
会場の表の張り紙には〈ブルース・タレント・コンテスト&キャットフィッシュ(なまず)・フライ〉と記されている。
魅力的なマッチングじゃないか。ちなみにこの日の1等賞金は200ドル。以下、2位は100ドル、3位は50ドルである。冷房のない場内は凄まじい暑さだった。いったい今までどこに隠れていたのかと首をひねるほどの大聴衆をかき分け、なまず料理を売るコーナーに行くと、さっき別れたばかりのバーバがサービスしていた。フライにコールスローとハッシュパピー(トウモロコシ粉で作るパンのようなもの)がついて6ドル也。流れる汗と同量のビールを補給しながら玉石混淆の演奏を聴いた。3組目に黒人の男がひとり、アコースティックギターを抱えて登場した。ロバートのスタイルだ。場内は騒然として彼のプレイは聞き取りにくかったが、僕は強く拍手を送った。ステージを降りたキース・ブラウンに声を掛けた。
「好きなミュージシャンは?」
「サン・ハウスが僕のヒーローさ」
「ロバート・ジョンソンはどう?」
「もちろん、好きだよ。今夜の2曲目は彼のナンバーだったんだ」
およそ10組の出場者のうち、アコースティック1本による弾き語りは2人だけだった。消えゆくスタイル‥‥。審査の結果、キースが2位に入った。
(つづく)

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Photographs by Tatsuya Mine

Bluesミシシッピロバート・ジョンソン

Yasuyuki Ukita • 2016年2月28日


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