スペイン、祝祭の地へ -1-
アーネスト・ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』のなかで、退廃のパリと対照するようにして描かれたスペイン・パンプローナ。“失われた世代”にとって、この町と周辺のエリアは、魂に改めてエネルギーを注入し、生きる意味と意欲を取り戻す土地だった。不朽の名作を生んだ刺激の源泉を探して、文豪ヘミングウェイの足跡を辿ってみよう。
文豪は9度もこの街を訪れた
学生の頃に読んでそれきりになっていた『日はまた昇る』を久しぶりに読み返し、狐につままれたような気分になった。ヘミングウェイの処女長編として知られるこの小説の書き出しを僕は、〈祝祭は爆発した〉だと誤って記憶していたのだ。この有名なフレーズは実際には小説の後半部分の冒頭に、それまでの展開をガラリと変える口火として登場する。それほどまでに祝祭部分の描写には強烈なインパクトがあった。ここで書かれている“祝祭”とは、スペイン北東部ナバーラ自治州の州都パンプローナで行われるサン・フェルミン祭のことだ。毎年7月6日から1週間にわたって行われるこの祭りは、街のど真ん中で行われる勇壮でスリリングな牛追い(エンシエロ)で知られる。
ヘミングウェイはその61年の生涯で実に9度もパンプローナを訪れ、祭りを、牛追いを、そして闘牛を見物している。最初の訪問は1923年、後の文豪が24歳になる直前のことだ。当時、パリで若手芸術家たちが集うサロンを開いていたアメリカの女流詩人ガートルード・スタインが彼にパンプローナへの旅を勧めた。スタインは自分よりも20歳以上も年下のヘミングウェイらに「ロスト・ジェネレーション」というキャッチーな名称を授けた張本人でもある。『日はまた昇る』のエピグラフ(題句)にも記されるこの言葉は通常「失われた世代」と訳されるが、スタインが使ったときの本当の意味合いは、「ダメな若い人たち」に近い。第1次世界大戦によって青春時代を奪われ、神もモラルも信じることができなくなり、生きる意味や原動力を喪失してしまった若者たち。『日はまた昇る』の前半、パリを舞台にした場面で、登場人物たちが呟く言葉がこの時代と世代の実相をよく表している。
〈「ねえ、ジェイク」とブレットが言った。「あたし、とてもみじめな気持ちよ」〉
〈「人生が、どんどん過ぎていくのに、自分がその人生をほんとうに生きていないと思うと、ぼくは、やりきれないんだ」〉
虚無と退廃のパリの対極として描かれたのがパンプローナだった。ヘミングウェイは祝祭に浮かれる人びとの高揚を描き、若き天才闘牛士ペドロ・ロメロの純粋で生命力に溢れた美質を活写してみせた。
〈「ロメロがおじけづくようなことはないよ」〉
〈「あなたは長生きするって言ったのよ」「わかってます」ロメロは言った。「ぼくは、けっして死にません」〉
これらの言葉は書き手である作家自身を励ましているように響く。そして、このときに蒔かれた励ましの種が後年、最高傑作『老人と海』の名句、〈人間は負けるようにはつくられてはいないんだ〉へと結実していくのではないか。
高揚と生命力と『惨めな私』の街
祝祭の狂騒とはほど遠い10月の午後、僕はカフェ・イルーニャのテラス席に腰を下ろし、コーヒーを飲みながらカスティーリョ広場を行き交う年配の旅行者たちを眺めた。カフェ・イルーニャは『日はまた昇る』の主人公たちが頻繁に通った店だ。パンプローナはもともとニューヨークともパリともまったく違うのんびりとした場所なのだ。文豪が描いた90年近く前と今日と何か大きく変わったところはあるのだろうか。この町も、人の心のありようも‥‥。
カフェを出て、少し街を歩いてみた。ホテル・ラ・ペルラはヘミングウェイの定宿だったところだ。ホテルのスタッフに頼んで、201号室“ヘミングウェイ・スイート”を覗かせてもらった。部屋の窓からは牛追いが通るエスタフェタ通りが見下ろせる。サン・フェルミン祭の時期、この部屋の室料は通常の4倍に跳ね上がる。毎年同じ客が予約しているとのこと。ホテルから少し歩くと、バロック様式の市庁舎の建つ広場に出る。サン・フェルミン祭はこの前の広場で始まり、そして終わる。祭は『ポブレ・デ・ミ(惨めな私)』という歌の大合唱で幕を閉じる。これほど夢中になれる祭が終わってしまうなんて、明日から何を楽しみに生きたらいいの? というわけだ。
(つづく)
Photographs by Taisuke Yoshida