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あのセシリアさんに会いにいく。-1-

 

5年前のことだ。スペインの片田舎に暮らす一人の老女が瞬く間に世界中で話題になるということが起きた。老女の名前はセシリア・ヒメネスさん。家の近くの教会でキリストを描いた古い絵画に筆をくわえ、「お猿のようにしてしまった」と言われた、あの人だ。僕は、どうしてなのかわからないが、この人、この事件がすごく気になった。たまたま仕事でスペインに行くことがあったので、滞在を延ばして彼女を訪ねてみることにした。以下はその時の旅の模様である。

ある程度裕福な家の人

玄関先で僕を出迎えてくれたセシリアさんは、〈本当は笑みを浮かべたいのだけれど表情筋がそれを許してくれない〉といったふうな、ちょっと複雑な面持ちだった。ボルハの町の旧市街の周囲に巡らされた城壁に同化するようにして立つ彼女の住まいは、ごく最近手を入れたらしく、木製のドアは真新しく、廊下の白壁は塗りたてのように真っ白だった。

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僕が通された居間には銀器やグラスのコレクションが飾られていて、セシリアさんがある程度は裕福な家の人であることが察せられた。ソファの背後の壁には、一面に絵の入った額が飾られ、中央を占める人物画以外の7点はすべて柔らかなタッチによる明るい色彩の風景画で、そのどれもがセシリアさん自身の作品だった。

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今僕の目の前にいる、どこにでもいそうな81歳の小柄な老女が、あれよという間に「世界で最も有名なスペイン人」になったのは、2012年8月半ばのことだった。地元の小さな教会の壁に100年以上前に描かれたキリストの肖像〈エッケ・ホモ〉の修復を彼女が手がけ、オリジナルの絵とは似ても似つかぬものにしてしまったのだ。折悪く、国の文化財調査員が教会を訪れ、修復中の絵を目にしたことから、スキャンダルとなった。メディアが「史上最悪の修復画」と騒ぎ立てると、ソーシャルメディアなどを通じて、その絵とセシリアさんの存在が一気に世界に知られるところとなった。ボルハの町長の話によれば、170を超える国々のメディアから取材の申し込みがあったとのことだ。「お猿のよう」と形容された修復中のキリスト像はブラック・ジョーク好きの人々にもてはやされ、ポップアートのイコンとして、あるいはゆるキャラとして世界に拡散していった。最初の報道からわずか1週間後には、日本でも菅直人元首相の顔をコラージュしたパロディ版がネット上に登場した。修復画を模したカレーライスを作って投稿した人もいた。金曜日ごとに東京・永田町の首相官邸前で行われていた反原発デモには、〈エッケ・ホモ〉がプリントされたTシャツを着て参加する人も現れた。人口約5000人のボルハの町には、週末ともなると1000人もの見物客が訪れるようになった。心ないものも含む無数の取材攻勢に疲れ果てたセシリアさんは一時体調を崩し、げっそりとやせ細ってしまったという。

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その絵は予想していたよりも小さかった

ボルハはスペイン東部、アラゴン州サラゴサ県にある行政区(日本の「町」もしくは「村」に当たる)。ローマ教皇カリストゥス3世、アレクサンデル6世を出したボルジア家は、このボルハを発祥の地とする(ボルジアはボルハのイタリア語読み)。首都マドリードからは北東へ約300㎞、車で行くと片道3時間半くらいのドライブだ。ローマ時代の城塞跡を取り囲むように旧市街が広がる。狭い市街地に教会が4つもあることが、この町とキリスト教との強い結びつきを物語っている。周辺には新興住宅が点在する。市街地を離れると、ぶどう畑、オリーヴの林が連なり、その先は無辺の荒野だ。

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さてセシリアさんが修復しようとしたキリストの絵は、実はこのボルハの町中にはない。町の北西約6kmの丘の中腹にサントゥアリオ・ミセリコルディアという施設がある。日本には同様のものがないので説明するのが難しいが、キリスト教系基金が運営する宿泊施設で、近在の人々が夏場や週末の滞在先として利用してきたものだ。“サントゥアリオ”とは聖地・聖域という意味。その施設の一角が小さな教会になっており、くだんの〈エッケ・ホモ〉は主祭壇に向かって右側、2つの聖像に挟まれた漆喰の壁にある。実物を見て僕が最初に思ったのは、その絵が予想していたよりも小さいなということと、色合いが報道で見てきたものよりもずっと暗く、沈んだ感じだなということ。絵は、それ以上のあらゆる介入を拒否するかのようにアクリル板でカバーされていて、特別扱いされていることも相まって、教会の中で明らかに浮いていた。その様をたとえるなら、礼装した人々の中に一人だけパジャマ姿の人が混じったといったところか。

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ここで絵のテーマとなった〈エッケ・ホモ〉について簡単に説明しておこう。〈エッケ・ホモ〉は新約聖書『ヨハネによる福音書』に出てくるラテン語のフレーズで、「この人を見よ」と訳されている。いばらの冠を頭に嵌められ半死半生のキリストを前に、ローマ人総督のピラトが民衆に向かってこの言葉を吐く。〈エッケ・ホモ〉は多くの画家が題材にしている。セシリアさんが修復しようとした原画は1910年にエリアス・ガルシア・マルティネスという画家が描いたものだが、実はこれは17世紀にイタリアのグイド・レニという画家が描いた絵とそっくりで、模写したものとされている。ということは、オリジナリティという意味では、セシリアさんのほうが元の絵の作者マルティネスよりも上だったかもしれないということだ。
(つづく)

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Photographs by Yasuyuki Ukita

Yasuyuki Ukita • 2017年2月28日


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