旧東ドイツ色の、万年筆インク。

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日本橋 丸善のカウンターで
「こちらで行われる、インクの調合に来たのですが‥」と、すこし緊張しながら用向きを伝えると、受付係のお姉さんが整理番号と開始予定時刻の記された紙片を手渡してくれました。本日はセーラー万年筆のインクブレンダーである石丸氏による、参加者の好きな色に万年筆のインクを調合してもらえるというイベント目がけて自宅から歩いて丸善へと入った次第です。

ところで、皆さん万年筆をお持ちでしょうか? 昭和生まれの人間なら、中学校の入学祝いに自分の万年筆を買ってもらった記憶のある方もいらっしゃると思いますが、私もそのひとりです。それから何十年も経過し、書くことを仕事にしながら、現在では筆記具を手にして紙に向かうことは稀です。もっぱらキーボードを打つことでテキストを作っております。それでも取材中のノートや、考えたことを書きとめるのにはペンを使います。そして、ここのところ万年筆を使う頻度が増しております。


どんな色のインクにするべきか?

万年筆には、インクを詰め替える楽しみがあります。既製品でも実にさまざまなインクのバリエーションが存在しています。それだけでも充分な気もするのですが、思うがままの色を調合してくれるとしたら、一体どんな色をリクエストしたらいいのか? これは悩みます。出来上がっているものを選ぶのではなく、自らの発意を持って要望すべきインクの色って何でしょう。

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旧東ドイツのカメラを持参

「これと同じ色のインクを作ってほしいのです」と、バッグから取り出したのは、WERRA(ヴェラ)という旧東ドイツのカメラ。敗戦により国家を二分されたドイツの東側に残留したツァイスが製造した大衆機です。資本主義の介入が無い世界で作られたので、余計な装飾が一切無い。そしてボディの貼り革の色が何とも言えない深い鶯色で、今は亡き共産主義の理想みたいなものを夢想させてくれる、切なくも美しい色だと思います。

ブレンダーの石丸氏とのセッションに当てられた持ち時間は15分。カメラに合わせて万年筆のインクの色を調合するなんて、どう考えても無謀なリクエストです。でも、さすが一線級のプロの仕事は見事なものでカクテル用のシェイカーで数種のインクを混ぜ合わせると、一発でかなり近い色に。そこから微調整を加えて、ものの見事にWERRA色の万年筆インクは完成したのでした。

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調子に乗ってもう1台
このイベントは、ひとり1色というルールでインクボトル1本を有償で作ってもらうのです。一緒に会場入りしたパートナーはギリギリまでどんな色を頼もうかと思案しておりましたが、結局ボクの持って来たもう1台のカメラの色にしていいとのこと。そこでスーパーサブとして用意していたカメラをバッグから取り出します。こちらも旧東ドイツの大衆機です。

ペンタコン製のPRAKTI(プラクティ)というカメラ。当時としては画期的な電動モーターによるフィルム巻き上げ可能な未来指向の機体。WERRAは天然皮革を模した革シボのパターンですが、PRAKTIは小さな矩形を敷きつめた人工的なパターンで、色もクールな灰色です。こちらも数回の調色でグレーのトーンを追い込み、PRAKTI色のインクが出来上がりました。
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旧東ドイツ色の、インクボトル

こうして机の上には2本のインクボトルが置かれ、それぞれの色にはWERRAとPRAKTIという名前が付けられたラベルが貼ってあります。どちらの色もとても気に入っているのですが、ご覧のとおり緑のWERRAの使用頻度が高いです。極太のペン先で宛名を書いたりすると渋くていい感じ。一方PRAKTIのグレーって、雑誌のレイアウトをラフ書きするときなどに重宝しているんですけれど、あんまり減らないんです。カメラの方もWERRAを使うことが多いので、どうやらインクの立場も一致してしまったようです。