大衆機の美学

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今でもフィルムカメラを
常用している自分にとって、ベストの1台は何ですか? と問われると本当に困ってしまいます。写真を撮るという目的を果たすべく設計されたカメラたちには、それぞれの利点や美点があります。設計者の意思や工夫、ブランドのキャラクターにもそれぞれ個性があって、いずれも興味深い。だから1台に決められないのですが、『大衆機として』という条件付きなら、このモデルを挙げることになると思います。

中折れ式のフィルム巻き上げレバーは、小刻み巻き上げが可能。撮影モードは絞り優先オートのみ。電源を喪失した場合の緊急用として1/90秒でレリーズが可能。青いボタンはバッテリーチェック用で、電池の容量が充分であれば赤いLEDが点灯するという至極シンプルな仕立てです。日本製のカメラですが発売は海外市場で1979年の春にスタートし、青いボタンを銀色に換装した国内バージョンは1年後の1980年春に発売されました。

これがカメラの全体像です。ニコンEMの輸出バージョン。上下カバーはプラスチック製で黒色塗装がされています。国内バージョンではプラスチックの表面に金属の薄膜をコーティングしてから塗装する小技を使っているので、塗料が剥がれると金属のメッキが現れてきます。そうすることで上下カバーがあたかも金属製であるかのような錯覚を引き起こすという魂胆なのですが、輸出仕様ではそのような回りくどい嘘はついていないので、外観のテクスチャーは清貧かつ潔白といった印象です。

必要な要素だけで構成された、大衆機の美学がニコンEMにはあります。外装をデザインしたのは、フォルクスワーゲンの初代ゴルフやフィアットパンダなどでおなじみのカーデザイン界の巨匠、ジョルジェット・ジュジャーロです。何らかの付加機能を足し算していくことこそが正義であり価値であるという考え方がカメラの世界では常識として闊歩しているのですが、それに鮮やかなカウンターパンチを喰らわせる1台となると、ニコンEMの右に出るカメラは数少ないと思います。

専用の交換レンズも
思いっきりプラスチックを多用したデザインです。キャラメルみたいなブロックパターンが格好いい。これはニコンEMにフィットする価格の交換レンズとして用意されたシリーズEというラインで、単焦点は28,35,50,100㍉の4本。それに加えてズームレンズもありました。国内仕様では基本設計は同一ですが銀色のリングを付加して、ちょっと高級っぽくしているところが逆に寒々しい印象を与えてしまうと個人的には思います。

ニコンEM シリーズE 28mm F2.8にて撮影。

 

スポーツカーかビンテージの大衆車か? クルマを選ぶことは、人生の決断に近いものがあります。それに比べればカメラって気楽に持ち換えられるし、何台も持っていてもさほど場所をとりませんよね。だから、あれこれと沢山あるカメラの中から“本日の1台”を選んで持ち出すことが可能なんです。なんだか物事が複雑になり過ぎて疲れるよなぁ。という気分のときにはニコンEMがオススメです。日々の生活におけるデジタル製品との接触で生じる過剰かつ煩雑なパラメータ操作により精神に蓄積された毒素を洗い流すデトックス効果が、シンプルなフィルムカメラにはあると思います。