CREEZAN

スペイン、祝祭の地へ-3-

 

 

〈酒を飲んで、ぼくは憂鬱な気分を忘れ、陽気になった。みんな実にいい人間に思えてきた〉(『日はまた昇る』より)

『日はまた昇る』の中盤、主人公らが人懐っこくて、気っ風のいいバスク人と革袋に入ったワインを回し飲みするシーンは左党にはグッと来る。ボタと呼ばれるこの革袋をヘミングウェイはたいそう気に入り、キューバの自宅「フィンカ・ビヒア邸」や最期の地、アメリカ・アイダホ州ケチャムの家にも備えていた。文豪はナバーラでどんなワインを飲んだのだろう?

 

古木のブドウから造られるエレガントな赤ワイン

ナバーラのワイン造りの歴史は古代ローマの植民地時代に遡る。中世にはフランスからピレネーを越えてやって来る巡礼者によって、優れたブドウ樹や醸造技術が持ち込まれた。巡礼者たちはワインの消費者であり、その品質を批評するうるさ型でもあった。ヘミングウェイが足繁く訪れた1920年代半ばはしかし、この地のワイン産業にとっては良い時代ではなかった。19世紀後半から欧州全土を襲った虫害はナバーラにも壊滅的な被害を及ぼした。ブドウ畑は放擲され、80種を数えたと言われる多用なブドウ品種の8割が消えてしまった。ヘミングウェイが晩年にこの地を旅した時分には、「血抜き」と呼ばれる製法で作られるロサード(ロゼ)がナバーラを代表するスタイルになり始めていたはずだ。

 

90年代以降スペイン各地で起こったワイン造りの革新的な動きのなかで、ナバーラも新たなセルフ・ポートレイトを見つけつつある。その眼目をごく簡単に言うなら、テロワール(地味)の忠実な表現と、固有品種と国際品種を組み合わせる「ナバーラ・ブレンド」の試みだ。北部の冷涼地で古木のブドウから造られるエレガントな赤、“アトランティック・ガルナッチャ”を草葉の陰の文豪に飲ませたら、何とコメントするだろう?

バスク気質が生み出した“祝祭”のような食事

〈スペインで、はじめて食事をすると、きまって度肝を抜かれる。オードヴル、卵料理一皿、肉料理二皿、野菜、サラダ、それにデザートと果物が出る。これだけのものをのみこむためには、大量のぶどう酒を飲まなければならない〉

ヘミングウェイが“度肝を抜かれ”たのは、当時のスペインの食事の量であって質ではなかった。今日では「美食の里」として世界にその名を知られ、憧れの地なったバスク地方の食の底力を作家はどれくらい感じていたのだろう?

サン・フェルミンの牛追いのルートにもなっているエスタフェタ通りはナバーラきってのバル街だ。バルの主役であるピンチョは「串」を意味し、元々は薄く切ったパンにイワシのオイル漬けなどを載せ、串で刺し留めたもの。この地方ならではのフィンガーフードだが、今では串もパンも形骸化し、実質的には「小さなサイズの趣向を凝らした料理」といった意味合い。その自由な創造性とポップなイメージが受けて、世界に新たな食のトレンドとして広まっている。

地元のパンプローナっ子たちがこぞって推すバル・ガウチョを覗いてみよう。カウンター後方の壁には「ミニチュアの偉大なるナバーラ料理」と記した額が掲げられている。抹茶を使ったデザートのように見えるのはカニとズッキーニのムースに青リンゴをあしらったもの。豚の頬肉とホタテ貝を重ねたピンチョには「あなたが海からなら、私は大地から」と、歌の詞のような名前が付いている。バスク人の気質について、「働き者で、家族や仲間を大切にする。古風なところがある一方で進取の気性にも富む」と説明する人がいたが、バルで親しい人たちとテーブルを囲み、前衛的とも言えるピンチョをつまむ彼らの姿はまさにバスク的と言えた。

ナバーラは海には面していないが、州の北端から10キロメートルほどでカンタブリア海だ。この海からメルルーサ、アンコウ、アングラス(ウナギの稚魚)、イワシ、イカなどがやってくる。ナバーラは野菜の宝庫でもある。アスパラガス、コゴジョ(ロメインレタスを小さくしたような野菜)、アーティチョーク……。なかでも代表格はピミエント・ピキージョ(赤ピーマン)だ。これをドラム状のロースターで焼き、皮をむいてオイル漬けにしたものは、伝統・革新いずれの料理にも欠かせない食材。甘くてほろ苦いその味はワインとの相性も良い。ピレネーの山の恵みにはコルデロ(仔羊)やチストーラ(ソーセージ)がある。ニジマスを生ハムとともにムニエルにする「鱒のナバーラ風」は『日はまた昇る』にも登場する。

最後の夜は新市街のモダンなレストラン、エネコーリで食事をした。前菜のエビ料理にはクリーム状にしたブロッコリと泡状にしたヘーゼルナッツ・バターが使われていた。続いて出された皿はブリュノワーズ(賽の目切り)されたズッキーニを添えたタリアテッレに見えたが、食べてみるとイカだった。いずれも地元の山海の食材を使いながら、意外性があり、想像力をかき立てられる刺激と官能の料理。会わせたワインのいきいきとした味わいと相まって、あたかも祝祭のような食事だった。

 

※本文中の引用は『日はまた昇る』(大久保康雄訳、新潮文庫)より。

※『スペイン、祝祭の地へ』は「AGORA」2014年8・9月合併号に掲載された「祝祭の地へ」を改題、加筆・再編集したものです。記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

 

 

Photographs by Taisuke Yoshida

 

 

Yasuyuki Ukita • 2017年12月31日


Previous Post

Next Post

Copyright © 2021 / CREEZAN